フリー雀荘に行く①

 私たちが麻雀から学ぶことができるのは「所詮人間は一人であって最終的には誰も助けてくれない」ということと「生きている時間の大抵は負けている」ということの2つである。うっかりそのことを忘れて、困ったら誰かが助けてくれるんじゃないかとか、もしかしてこのままいろんなことがうまくいき、連戦連勝してしまうのではないかとチラとでも思おうものなら、かなりの高確率でしっぺ返しを食らう。そのことを忘れて実人生で大怪我をしないために、私たちは仕事の合間を縫って定期的に卓を囲む必要がある。

 麻雀に入れ込むのに時間がかかったほうだと思う。大学時代、やれ徹マンだ!とか、授業をサボって雀荘通いだ!とかを経験することはなかった。夜は家で寝たかったし、授業にはきちんと出ていた。周りに麻雀をする友達はいるにはいたが、サークルの友達が麻雀にいわば「耽溺」している様を見て、そんなに面白い遊びかね、と白けた気持ちでいたことを思い出せる。

 親戚にも愛好者はいなかった。父親は博才がないことを自認していたし、賭け事には一切関わらなかった。母親はそうしたことを嫌悪していたようですらあった。固い仕事をしていたせいなのか、両親にとっての金とは月末に一定額自動的に振り込まれるものであって、その多寡に直接関与できる類のものではなかったのだろうと思う。

 初めて麻雀牌に触った時のことも覚えていない。大学時代、なんとなく教えてもらい、打っては見たものの、いうほど魅力的なものとも思えなかったし、全くくだらないとも思わなかった。場合によってはこうやると勝てるのかと思える瞬間もあった。その後も何度か間に合わせで雀荘に呼ばれ、友達と打つ機会もあるにはあったが、その都度、大学生にとっては痛い額を負け、帰りの電車でもう二度とやらないなと思ったりした。

 それが不思議と社会人になって、麻雀をする機会が増えていった。たまたま仕事の関係の人たちと打つ機会があった。何となくその会の居心地が良く、不定期だった集まりが、年に数回定期的な集いになった。昼から終電直前まで打って、みんなで写真を撮って帰る。健全な会だった。

 

 そんな程度に麻雀に関わってきた。ライトユーザーもライトユーザーだ。ただそんななかにあって、不思議と麻雀という遊びの存在感が少しづつ大きくなってきている感覚があった。気づいた時には「別に好きでもなんでもないけど、教室を出ていくのを目で追ってしまうあの子」ぐらいの存在にはなっていた。

 別に特段勝てるようになっていたわけではなかった。むしろ毎回毎回、きちんきちんと負けていた。前と違うところがあるとすれば、あまりに負け続けたせいで、いちいち負けたことに動揺しなくなっていたことだった。負けることに慣れはじめて、いちいち負けに動揺しなくなった結果、その日の負けについて考える余裕が出てきていた。

 麻雀は4人で行う遊戯なので、乱暴に言ってしまえばそもそも4回に1回しか勝てない。では残りの3回はどう負けても同じかというと、これがそうではない。1回の負けが300点で済む時もあれば、48000点になってしまう時もある。同じ負けでも差が47700点分あるのだ。これはゲームにおいて相当大きな差になってくる。潜在的に8000点支払わなければいけない可能性がある局面で、失点を2000点に抑えられた、これは負けであると同時に、(6000点分の出費を防ぐことができたという意味で)ある意味望ましい結末でもあるのだった。

 勝てずとも、自身の失点を減らすことができるように動けることが麻雀においてかなり重要な技術になっているらしいことに私は少しずつ気づいていった。そして麻雀について考えるとき「いかに勝つか」ではなく「いかに負けるか」の方に視点がシフトしていったこの時期を境に、私にとっての麻雀は「完全に目が離せないあの子」になった。

 

 いかにして勝つかではなく、いかにして負けるか。これは仕事に就いて3,4年だった当時の自分にとって、かなりしっくり来る命題だった。仕事は大抵の場合、困ったことが起こり、それをなんとかこなしていくことの連続だった。そういう時にいかに逆転するかを考えてうまくいくことは少なかった。大抵の場合、状況はかなり負けが込んでいるか、完全に負けているかのどちらかだった。そんな状況にあって、すでに決まった負けを、それでもダメージを最小限に抑え、使えるものをすべて使い軟着陸させていくのが仕事の重要な一部だった。

 そういう仕事のせいか、いつのまにか負けることは人生に避けられない事態なのだという確信が生まれ始めていた。大学生の頃はそうではなかったと思う。自分が努力したり工夫したりすれば状況は少なからず改善するし、長い目で見れば状態が上向いていくだろうということについての信憑があった。しかしそれは「この会社に入れば安泰」とか「この人と一緒になれば幸せになれる」とかいう考えに近い、若者の抱きがちな空想だった。これが空想だと気づくまでに結構かかったように思う。

 実生活では、自分にはどうしようもできないことがあり、それはそれで不可避な状況なので、どうしようもないけれど、どうするかを考えなければいけない。「逆転勝利」も「どんでん返し」もそうはない、冴えない状況に揉まれながら仕事をし、その合間たまたま囲んだ麻雀卓で「あぁ麻雀も仕事も結局いかにして負けるかを考えるってことなんだなぁ」とある時、腑に落ちたのだった。がんばればそれなりにうまくいくと思っていた大学生の私が麻雀にそこまでの魅力を感じなかったのはある意味当然のことだった。