フリー雀荘に行く②

自宅から少し離れた駅で降りた。道すがら空に向かって「どんまーい!がんばれよー」と叫んでいるおじさんがいた。雀荘のドアを開けてみると、平日の昼過ぎだが2卓稼働している。薄暗い蛍光灯の下で皆卓を見つめている。30~50代の8人だった。

 

5分ほどで店のルールの説明をされたが、頭に入ってこなかった。じんわりと後悔し始めていた。すぐに1卓に入っていたメンバー(店員)が抜け、卓に通された。ついに来た、これがデビュー戦である。席につき、開いていた点棒を入れる引き出しをしまい「よろしくお願いします」と言ったか言わなかったか、もうすでに私の自摸番が回ってきていた。気づけばすでに配牌も上がってきている。皆が私を見ている。「よろしくね」ではない、「早く切れ」ということなのだ。

 

皆とにかく打牌が早かった。私は数巡もうなにも考えず、字牌を切ることしかできなかった。シャンテン数も牌効率も鳴く鳴かないもすべてが吹っ飛んでしまっていた。まずもって自分の次の自摸番までに理牌しきれない。どんなに急ごうとしても右手が震えている。それを見て、あぁ、ここにいるのがすごく恐ろしいんだなということがわかった。牌が手につかず、こぼれてしまう。ふと見ると左手も卓の下で震えている。私は右手首を卓の縁に上からぐっと押し付け(くそ、とまれ)と震えと戦っていた。勝ち負け以前の状態だった。

 

同卓したのは30~40代であろう人たちだった。私の左に座ったよれよれのネルシャツ男は50代に手がかかりそうで、卓内一番の年長者らしかった。対面は瘦せぎすで、作業着を着た三十男だった。笑った顔に愛嬌があり、そのたびにものすごい乱杭歯が口元からのぞいた。下家には柔和な感じの無口な中肉中背の男、小学校の同級生の松井に似ていた。私が切った字牌を上家のネルシャツが鳴く。するとまたすぐ私の自摸になってしまう。とにかくあまりに早い。

 

東2局に入っても、自摸ってきては捨て、自摸ってきて捨てだけを繰り返していた。当然、他家の河を見る余裕もない。そればかりか自分のシャンテン数も分からないようなあり様で、場のスピードに完全に飲まれていた。それに追い打ちをかけるようにネルシャツから「牌山もっと前に出して」と指摘される。自動卓の中からせりあがってきた牌の山は皆が取りやすいように、右端を少し前に出し斜めにしておくのが一般的なマナーだ。もちろん私自身その日もそうしていたが、出し方が甘いということらしい。ネルシャツは終始マナーに厳しかった。それをたしなめる体で対面の作業着男が「厳しいっすね」とネルシャツをからかう。「ルールブックには書いてないからなぁ」とそれに応じたネルシャツに、下家の松井は目だけで笑ってみせた。

 

2分と経っていないのに、のどがからからだった。左手を卓外に少し伸ばせば、お茶のコップに手が届きそうだったが、震える左手でコップをつかめる気がしなかった。結局この半荘が終わるまで、一滴も口にできなかった。タバコもバックから取り出し咥えて火をつける作業はとてもできそうになかった。悪いことに持っていたのはアメスピで、その火の付きにくさを考えれば、喫煙も絶望的だった。

 

その間あがれそうな手は入らなかったし、振り込むこともなかった。作業着の調子が良く、「2000,4000」「1300,2600」とサクサク自摸あがっていた。あまりに目まぐるしい局進行に、(これは今日一度もあがれないか)と思い始めていた。(まだ早かったのか、なんで好き好んでこんなとこでこんなことしてるんだ)と、いっそ逃げ出したくもなった。ただあがれていないというだけで、まぁ面子としては普通に打てていたし、他家に迷惑はかけていないはずだった。受け取った点棒のお釣りを引き出しに入れそこなって床に落とし、ネルシャツに「点棒合わないよ」と言われることはあったが、なにしろ私の両手は通常の3割くらいしか機能していないだ。大目に見てもらうしかない。不思議と負けていること自体に関してもあまり気にならなかった。大きな手に振っていないということもあったが、負けている時は支払うべき得点を相手が教えてくれるので、言われた得点分を払っていればよく、そこについては気が楽だった。逆に言えば、自分が上がった時は自分の点を申告せねばならず、それができるかということが当面の心配だった。

 

そうこうしていると手が入った。赤のあるタンピン系で、早そうだった。数巡後にあっさり聴牌。しかし何しろ大緊張状態の自分だ、本当に張っているか見間違いじゃないかという不安が高まる。フリーで初めてかけたリーチがノーテンでチョンボなんて(ありそうなことだが)あまりにはずかしいし、罰符も払わなくていけない。しかし考えている時間もない。(シュンツが1,2,3...頭もある)と小考し、思い切ってリーチした。リーチした後また強烈に不安になり、(本当に聴牌してる?)と何度も何度も自分の手牌を確認した。その間、全く河を見ておらず、後になって慌ててロン牌がでていないことを確認する始末だった。しかし点数申告に関しては問題なさそうだった。メンタンピン赤できっちりマンガン、自模っても裏が乗らなければマンガンには変わらない。作業着はリーチにまっすぐ来ていた。1副露のネルシャツは降り気配、松井は「うーん?」と苦しそうな声を出し、筋を追っている。

 

そしてその瞬間が来た。松井の前の山から震える右手で自模ってきた3mで私の記念すべき初あがりとなった。牌を倒し、「ツモ、2000、4000です」と発声した。幾度となく思い描き、シュミレーションした瞬間だった。やればできるじゃないかと思っていた矢先ネルシャツが口を開いた。「4000オールでしょ?」

 

しまった!親だった...

 

 

フリー雀荘に行く①

 私たちが麻雀から学ぶことができるのは「所詮人間は一人であって最終的には誰も助けてくれない」ということと「生きている時間の大抵は負けている」ということの2つである。うっかりそのことを忘れて、困ったら誰かが助けてくれるんじゃないかとか、もしかしてこのままいろんなことがうまくいき、連戦連勝してしまうのではないかとチラとでも思おうものなら、かなりの高確率でしっぺ返しを食らう。そのことを忘れて実人生で大怪我をしないために、私たちは仕事の合間を縫って定期的に卓を囲む必要がある。

 麻雀に入れ込むのに時間がかかったほうだと思う。大学時代、やれ徹マンだ!とか、授業をサボって雀荘通いだ!とかを経験することはなかった。夜は家で寝たかったし、授業にはきちんと出ていた。周りに麻雀をする友達はいるにはいたが、サークルの友達が麻雀にいわば「耽溺」している様を見て、そんなに面白い遊びかね、と白けた気持ちでいたことを思い出せる。

 親戚にも愛好者はいなかった。父親は博才がないことを自認していたし、賭け事には一切関わらなかった。母親はそうしたことを嫌悪していたようですらあった。固い仕事をしていたせいなのか、両親にとっての金とは月末に一定額自動的に振り込まれるものであって、その多寡に直接関与できる類のものではなかったのだろうと思う。

 初めて麻雀牌に触った時のことも覚えていない。大学時代、なんとなく教えてもらい、打っては見たものの、いうほど魅力的なものとも思えなかったし、全くくだらないとも思わなかった。場合によってはこうやると勝てるのかと思える瞬間もあった。その後も何度か間に合わせで雀荘に呼ばれ、友達と打つ機会もあるにはあったが、その都度、大学生にとっては痛い額を負け、帰りの電車でもう二度とやらないなと思ったりした。

 それが不思議と社会人になって、麻雀をする機会が増えていった。たまたま仕事の関係の人たちと打つ機会があった。何となくその会の居心地が良く、不定期だった集まりが、年に数回定期的な集いになった。昼から終電直前まで打って、みんなで写真を撮って帰る。健全な会だった。

 

 そんな程度に麻雀に関わってきた。ライトユーザーもライトユーザーだ。ただそんななかにあって、不思議と麻雀という遊びの存在感が少しづつ大きくなってきている感覚があった。気づいた時には「別に好きでもなんでもないけど、教室を出ていくのを目で追ってしまうあの子」ぐらいの存在にはなっていた。

 別に特段勝てるようになっていたわけではなかった。むしろ毎回毎回、きちんきちんと負けていた。前と違うところがあるとすれば、あまりに負け続けたせいで、いちいち負けたことに動揺しなくなっていたことだった。負けることに慣れはじめて、いちいち負けに動揺しなくなった結果、その日の負けについて考える余裕が出てきていた。

 麻雀は4人で行う遊戯なので、乱暴に言ってしまえばそもそも4回に1回しか勝てない。では残りの3回はどう負けても同じかというと、これがそうではない。1回の負けが300点で済む時もあれば、48000点になってしまう時もある。同じ負けでも差が47700点分あるのだ。これはゲームにおいて相当大きな差になってくる。潜在的に8000点支払わなければいけない可能性がある局面で、失点を2000点に抑えられた、これは負けであると同時に、(6000点分の出費を防ぐことができたという意味で)ある意味望ましい結末でもあるのだった。

 勝てずとも、自身の失点を減らすことができるように動けることが麻雀においてかなり重要な技術になっているらしいことに私は少しずつ気づいていった。そして麻雀について考えるとき「いかに勝つか」ではなく「いかに負けるか」の方に視点がシフトしていったこの時期を境に、私にとっての麻雀は「完全に目が離せないあの子」になった。

 

 いかにして勝つかではなく、いかにして負けるか。これは仕事に就いて3,4年だった当時の自分にとって、かなりしっくり来る命題だった。仕事は大抵の場合、困ったことが起こり、それをなんとかこなしていくことの連続だった。そういう時にいかに逆転するかを考えてうまくいくことは少なかった。大抵の場合、状況はかなり負けが込んでいるか、完全に負けているかのどちらかだった。そんな状況にあって、すでに決まった負けを、それでもダメージを最小限に抑え、使えるものをすべて使い軟着陸させていくのが仕事の重要な一部だった。

 そういう仕事のせいか、いつのまにか負けることは人生に避けられない事態なのだという確信が生まれ始めていた。大学生の頃はそうではなかったと思う。自分が努力したり工夫したりすれば状況は少なからず改善するし、長い目で見れば状態が上向いていくだろうということについての信憑があった。しかしそれは「この会社に入れば安泰」とか「この人と一緒になれば幸せになれる」とかいう考えに近い、若者の抱きがちな空想だった。これが空想だと気づくまでに結構かかったように思う。

 実生活では、自分にはどうしようもできないことがあり、それはそれで不可避な状況なので、どうしようもないけれど、どうするかを考えなければいけない。「逆転勝利」も「どんでん返し」もそうはない、冴えない状況に揉まれながら仕事をし、その合間たまたま囲んだ麻雀卓で「あぁ麻雀も仕事も結局いかにして負けるかを考えるってことなんだなぁ」とある時、腑に落ちたのだった。がんばればそれなりにうまくいくと思っていた大学生の私が麻雀にそこまでの魅力を感じなかったのはある意味当然のことだった。

したことないことをしよう

 したことないことをしよう。大人になるとしたことないことが減っていく。減っていくと同時並行的にしたことのないことを避けようとする気持ちも出てくる。その結果、ますますしたことないことをしなくなる。

 なじみの店、なじみの人、なじみの仕事場、それはそれで素敵だが、既知の世界で小さくまとまってしまう気がしないではない。ここ数年顕著なのは、見る映画のジャンルが狭まったことだ。ジャンルばかりでなく、名作と言われるものばかり見て「はずれ」を避けるようになった気がする。油断すると、ゴッドファーザーを見て、ファイトクラブを見て、ダラスバイヤーズクラブを見て(以下繰り返し)...ということになる。するともうそこにはインディペンデンスデイ:リサージェンスみたいなド腐れ映画に触れる時間は残されていない。あの映画はもう2度と見ないし、作った人間の正気を疑いもするが、少なくともあれを見に行ったから「これは失敗だったな」と思えたわけだ。したことないことを避け始めるというのは、失敗を避け始めるということだ。自分の中にそういう傾向を認めたので、避けてきたことをやったり、やったことないことをしなければならないという思いを強くした。

 やったことないことをやるのは不安なので、その不安も込みで、したことないことをしたことについて書いていきたい。